京都の数寄屋

年末に京都を訪れました。

京都在住の友人にお世話になっての、建築三昧ツアーです。

まずは天竜寺を訪れました。大きな庭を持つ大方丈が有名ですが、今回はご住職と京都府建築士会の方々のご厚意で、非公開の塔頭「宝厳院」におじゃまさせていただきました。大正初期に建てられた迎賓館としての役割を持つ別荘です。その贅を尽くした極めつきの近代数寄屋に、度肝を抜かれました。

見どころは山ほどありますが、その一部をここで紹介させてもらいます。

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入り口の門
栗の皮付き丸太の骨組みに、扉や腰張りには栗の巨大な平板をちょうなで仕上げたものが貼られています。

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玄関
床の石は鴨川のもので、表面が平らな自然石を選んで並べたものです。

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廊下
天井の桁は本末無しで7間半もの長大な北山杉丸太、仕上げは黒部杉へぎ板の網代です。

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水屋の付書院
自然の曲がり竹の落とし掛け、複雑な家具、引き出しの丸面仕上げ、扉の網代などなど。

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廊下の地窓
こんなところの格子まで、縦材がなぐり仕上げになっています。

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腰掛けの座面
背もたれに竹網代、座面には細い竹が使われ、コーナーの処理が見事です。

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茶室<無畏庵>
庭にある離れです。垣根の竹は、植えられた竹だったり、穂だったりでグラデーションがつくられています。

ただただ溜息ですが、それと同時に水を差すような不謹慎な思いも頭をもたげます。なぜここまでしなくてはいけないのだろう?高級料亭の会席料理より、素敵なカフェめしの方が気楽で美味しいではないか、と。困ったものですね、貧乏性というやつは。でも、なぜこのように思うのでしょうか?

宝厳院の空間の味わいは確かに格別なものです。 最高級の材料を最高級の技術で加工したときのみ得られる、艶や肌触り、空間に漂う緊張感と色気があります。それは、その場に訪れ本物に触れることでしか決して味わうことの出来ないもので、またある程度の予備知識が無くては読み取ることも出来ないものです。その意味で、他人に伝えることの難しい価値です。 流通しにくい価値とも言えるでしょう。

しかし、いちど良いものを知ると、もう後には戻れません。もっともっと、と求める欲望はとどまるところを知らず、より極端なものを求めるようになります。数寄屋とは、そういった欲望に応えて発展してきたものなのでしょう。

ところで、最近建築雑誌をにぎわせる作品のひとつの流れに、極端さを競うものがあります。 窓が極端に大きいとか、柱が極端に細いといったものです。それらを数寄屋的と呼んでも差し支えないでしょう。ただ、多くの場合、極端さは一点に集中し、宝厳院のようにそれに埋め尽くされるわけではありません。極端に大きい窓以外は、いたって普通という作り方がされます。

そうすることで、その価値は伝わりやすく、流通しやすいものになります。その反面で色気や深みはあまり感じられませんが、こういった分かりやすい極端さには親しみを感じられるのも事実です。そこで気楽に過ごす生活は、先のカフェめしに例えられるものだと思います。

そもそも庶民には縁のない高級料亭よりも、身近なカフェの肩を持ちたくなるものですが、それは質の問題ではなく分かりやすさの問題であり、結局のところ懐具合の問題のようです。高級料亭での食事が日常という方は、違った意見を持たれることでしょう。どちらが美味しいか、と比べることは無意味なのです。

もちろん懐具合を無視して生活を考えることは出来ませんが、そこからいちど離れて色々な価値を知り、再び自分の身の丈に合ったものを考える姿勢が、成熟した大人の環境づくりにつながるのではないでしょうか。

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